誇り高き戦士たち

こんにちは、山田です。
今回も短い時間でしたがお世話になりました。
 
初めて吉里吉里に降りた時に正直思ったこと、
なにもない風景に圧倒されました。テレビで見ていたそのままの風景が目の前にある。
でも、 
一方でこうも思いました。
僕は震災以前の街並みを知らない。
ガレキでいっぱいだった街並みも知らない。
比べる対象が無く、どこかリアリティーのなさを感じました。 
  
その時、ここに住んでいる人たちと多く関わりを持って普段の生活を共有したいと思いました。 
それは震災の当時の話を聞き、感覚のズレを埋めたいということではなく、
今日の天気のこと、おいしい食堂とそのおばちゃんの世間話、季節の移ろいで 変化する山や海の表情、、、
その日その日のリアルを感じたいと思いました。
今の吉里吉里を知りたいと思いました。
結果的には自分の思いを裏切る程の皆さんの明るさに初めはびっくりしたけれど、 
そこに妙な居心地の良さとちょっとおかしいかもしれませんが説得力を感じました。
  
 そして、今回再び訪れ吉里吉里に降りた時はまったく違う感覚でした。
それまでは家から一歩も出ず、テレビから見た被災地の映像はとても遠い地で起こっているものに感じていました。日本ではない感覚さえしました。
しかし、夜行バスで半日かけ向かう吉里吉里はスイッチひとつで見るテレビのそれよりとても近く感じました。
  
 僕は、支援をしに行っている感覚はありません。吉里吉里には自分がほしいもの、必要なものがたくさんあります。
吉里吉里の方々の人生の先輩から教わる目からウロコ話
山、海、自然の偉大さ
ここでなければ出逢えなかった住んでいる場所も年齢もバラバラなボランティア仲間 
これらは間違いなくこれからの自分の人生の大きな財産になります。 
  
共に歩み、共に創る。
そして、
共に与え、共に与えられる。 
  
この与え、与えられるものがひとつになったらとても素晴らしいですね。 
  
正彦さんが
「私たちは誇りを持ってこの地で生きていくんだ」
「これからの世代に誇りを持って生きてほしいんだ」
とおっしゃっていました。
  
 自分に「誇り」を持って生きられている人はなかなかいないと思います。たとえ持てたとしてもそれを持続させていくのにはとてもエネルギーがいります。 
「誇り」というものはなにかを成し遂げて初めて得られるものだと思っていました。それは満足感や達成感からくるものだと。
自分一人ではそうかもしれません。
でもたくさんの人とひとつのものに向かっている時はそれだけじゃない気がします。
普段は一点を見つめ歩き続けているんだけど、ふっと横を見た時、自分と同じものに向かって横を歩いている仲間がいる。決してお互い歩幅を合わせイッチニッと歩いているわけではないのに彼は目を合わせずとも自分の横で常に同じものを見ている。 そんな仲間の横顔を見た時その仲間を誇らしく見え、同時に少し自分の事を誇れるかもしれないですね。
自分には仲間がいると。
  
 そんな皆さんの横顔はとても誇らしいです。 
山田 健太 

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コメント: 1
  • #1

    まさひこ (木曜日, 14 2月 2013 16:53)

    普通の人間は、美しいです。
    だから当たり前の人間でありたいです。
    きらりと光るものが、そこから視えてくるのです。
    それこそ、誇りなのです。

    普通の人として夜行バスに揺られ、吉里吉里に来てくれる山ちゃんの言葉は、本物です。