きっかけ~吉里吉里の紹介/Our beginning-Kirikiri

■吉里吉里のいま/the present Kirikiriは こちら

 

岩手県上閉伊郡大槌町にある吉里吉里地区。

井上ひさしの小説「吉里吉里人」で知られる漁業が盛んな集落です。

 

震災直後は全てのライフラインが途絶え行政機関も壊滅した中、村の男衆が結束し自前で吉里吉里地区災害対策本部を設置。

行方不明者の捜索を兼ねながら瓦礫を撤去し直線道路を切り 開き、救援救助の為のヘリポートを作り、倒壊したガソリンスタンドの地下タンクから、手動で灯油やガソリンを汲み上げ続けて燃料を確保。

 

これら全て一から十まで自力で行っていたのです。

震災四日後に現地入りした自衛隊や米軍の人々からは「このような被災地は今までに見た事がない」と驚かれたそうです。

 

私達は吉里吉里の人々と直に触れ合ってみて、その人柄にも魅かれ何とかこの方々の力になりたいとの思いを強く持ちました。

 

※被害状況及び現在の世帯数.人口

吉里吉里地区:全壊家屋355戸.半壊家屋45戸.一部損壊家屋24戸.死者72名.行方不明者28名.

2014年6月現在の世帯数853.人口2054名.

浪板地区:全壊家屋53戸.半壊家屋53戸.一部損壊家屋13戸.死者13名.行方不明者11名.

2014年6月現在の世帯数169.人口403名.

復活の薪

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2011年の夏に撮影。炎天下、無休で薪を作り続ける吉里吉里の人々と大勢のボランティア。
2011年の夏に撮影。炎天下、無休で薪を作り続ける吉里吉里の人々と大勢のボランティア。

震災以降、吉里吉里の人々は全てのライフラインが途絶えた中での避難所暮らしで非常に不自由な生活を余儀なくされていました。

そのような折、四月初めに県の災害支援にて避難所に薪ボイラーを使った入浴施設が開設され、燃料には津波によって倒壊した家屋の廃材が薪として活用されました。

 

開設当初は県職員が、がれきの中から廃材をかき集めて薪を作り風呂を沸かしてと、一手に全ての作業をされていたそうです。

毎回その姿を見ていた吉里吉里の人々は、県職員に対しての感謝の気持ちから薪割りなどを手伝うようになったそうです。

 

そんなある日、ボランティアとして活動していたメンバーの一人が「この薪 売らはったらどないですか?」と一言。

その一言がきっかけで復活の薪は始まりました。

吉里吉里の人々は震災以降伏し目がちだったのが、復活の薪を始めた事により人の目を見られるようになり、やっと顔を上げる事が出来るようになったとおっしゃっていました。

 

「何かを創り出したい、生産したい」との想いから復活の薪をスタートされましたが、当初はがれきから作った薪が売れるのだろうかと不安だったそうです。

ところがある新聞に活動についての記事が掲載されるやい否や、全国各地から注文が殺到。

その日から割っても割っても注文数に追いつかない「薪割り漬け」の日々が始まりました。

2011年7月 倒壊した家屋の梁や柱をガレキの中から拾い上げ、薪作りをする吉里吉里の人々とボランティア
2011年7月 倒壊した家屋の梁や柱をガレキの中から拾い上げ、薪作りをする吉里吉里の人々とボランティア
2011年9月 ただひたすらに薪を作り続けました。
2011年9月 ただひたすらに薪を作り続けました。

吉里吉里のほとんどの人々は、チェーンソーを扱うのも斧を持つのも初めてで薪割りの経験もありませんでした。

もちろんボランティアもほとんど経験のない者ばかりでした。

そのような顔触れで復活の薪は始まり、真夏も無休で皆で無心に薪を割り続ける日々が続きました。

釘などを抜き終えた廃材を一本一本、台に乗せてチェーンソーで寸法に合わせて切断しました。
釘などを抜き終えた廃材を一本一本、台に乗せてチェーンソーで寸法に合わせて切断しました。

薪づくりは全て手作業で進められました。がれきの中から倒壊した家屋の柱や梁などを拾い上げダンプカーで運び、その廃材から釘などを一つ一つ丁寧に抜いていく。そしてチェーンソーで均等な長さに切り、斧で薪用の大きさに割っていく。そして最後に袋に梱包する。そのような作業が炎天下延々と続きました。

当初は想像を絶する程の注文が殺到した為、混乱を極めましたが、吉里吉里の人々と大勢のボランティアが共に汗を流し続けた結果、徐々に応えていく事が出来るようになり、2011年9月末、 最終的には全国各地に5000袋/50トンもの復活の薪を出荷し、それは同時に50トンのがれき処理にも繋がりました。

2011年9月末に撮影。5000袋出荷達成の記念に吉里吉里の人々とボランティアにて撮影。
2011年9月末に撮影。5000袋出荷達成の記念に吉里吉里の人々とボランティアにて撮影。

「この方々の力になりたい」との強い想いが私達を突き動かし、この経験は当会を発足するきっかけとなりました。

 

 

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ここからは吉里吉里にお住まいの方に、震災以前の町の様子について語って頂いたのでご紹介致します。

 

 

吉里吉里について

 昭和から平成(東日本大震災以前)の吉里吉里について紹介

 

 その昔、西暦1600年代からの吉里吉里には前川善兵衛(吉里吉里善兵衛)という海産物で名を馳せた豪商がおりました。しかし、その時代の吉里吉里については様々な文献があると思いますので、ここではあえて触れません。

 今回紹介するのは、私や私の父母が育った時代(昭和初期~平成)の吉里吉里の様子についてとなります。

 

 私の父の記憶によると(ちなみに父は昭和5年生まれの83歳)昭和初期の吉里吉里は大きな漁船もなく小舟を利用して船越湾内を中心として魚介類や海藻類を採取したり、僅かな田畑を耕す半農半漁を生業とする貧しい小さな漁村であり、明治の大津波や、昭和8年の津波の被害に遭いながらも自然に寄り添い海と共に生きる人達の住む町だったそうです。

 

 津波に関していうと、明治の大津波は当時を知る人たちのほとんどはもうすでにおりませんのでここで述べることはあえて割愛します。昭和の津波については祖父母や両親から聞かされていたので少し触れたいと思います。当時父は3歳で記憶にはあまりないとのことですが、当時の家は吉里吉里ローソンより海側にあったのは記憶にあるそうです。津波の様子は祖父母から聞いた話によると夜中に「津波だ!逃げろ!」という声に驚いて、8歳の長女と3歳の父を連れて真っ暗な道を高台に避難したそうです。(避難場所は吉里吉里ローソン前の小高い丘)幼い子どもを二人連れて急な斜面を登るのはすごく大変で、男の人から押し上げたり引っ張られながら何とか逃げたそうですが、それでも波が足元まで迫っており安全な場所に避難しても生きた心地はしなかったと話していました。

 この津波で当然のことながら家は流され全財産を失ってしまったのですが、祖父母が頑張って、現在の場所に移転するまでに8人の子どもを育てながら2軒の家を建てたとのことでした。父にそのことを聞くと、「自分の両親ながらすごい人達だった」と話していました。

 このようなことは私の家だけではなく、当時の吉里吉里の人達も同様だったと思われますので、そのときの人達は災害に屈することなく、必死に前を向いて進んでいたのだなあと心の底から感心させられましたし、改めて今回の大震災・大津波後の吉里吉里の方々の行動を見るにつけ、吉里吉里の遺伝子は確実に受け継がれていて、必ずや以前のような町に戻せるという確信を持つことができました。

 

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昭和30年代に撮影。天照御祖神社のあたり。
昭和30年代に撮影。天照御祖神社のあたり。
昭和30年代前半のお祭りの様子。
昭和30年代前半のお祭りの様子。
昭和30年代に撮影。消防屯所の前。
昭和30年代に撮影。消防屯所の前。

 昭和の津波以降の吉里吉里は復興を進め、第二次世界大戦後の国内高度経済成長にともない、少しずつ豊かな町へと変化していったようです。

 具体的に言うと、漁師さんは北洋での鮭鱒漁、サンマ漁、遠洋でのマグロ延縄漁の採取漁業(吉里吉里にもかなりの船団がありました)と昭和40年代から養殖を始め(ワカメ、牡蠣、ホタテ、ホヤ等)天候や災害等で被害を受けることもありながら、安定した収入を得ることができるようになり、漁師さん以外の方々は隣の釜石市にある新日鉄釜石製作所や近隣市町村の関連会社を中心とした様々な会社に勤務し昭和初期に比べれば豊かな生活が送れるようになったとのことでした。

 

 私が生まれたのは昭和36年で、吉里吉里が活気にあふれている時期だったのだと思います。私のおぼろげな記憶から当時を思い出してみると、今の吉里吉里からは想像もつかない町の様子が思い浮かびます。それが以下の様子です。

 

  • 新日鉄釜石製作所で勤務する人であふれる駅のホーム(当時は複線で、真夜中も列車が走っていました)駅には売店があり、現在の駅前公園には国鉄職員の官舎があり、駅に勤務する人達の家族がたくさん住んでいました。
  •  映画館が2軒もあり、私が記憶にあるのは保育園児のとき園児みんなで見た「黄金バット」と怪獣映画、黄金バットの顔と笑い声が怖かったのを覚えています。
  •  なんと、パチンコ店もあった。(これは私の母方の祖父母の家でやっていたそうなので確かです)
  •  食堂、理髪店、美容室、駄菓子屋、食料品店、雑貨屋も何軒もありました。当時の子ども達にとっては暗黙の了解で縄張りみたいなものが存在し、自分の行きつけの場所以外のお店に行くのは、ちょっと勇気が必要でした。
  •  子どもの数も多く、小学校は450名前後(当時は浪板分校もありました)、中学校も230名前後もいて放課後は町中のそこかしこで子ども達が遊んでいました。
  •  お祭りも凄かったです。神社前の通りの両側に露天が並び、何処の通りも見物人であふれており、何処にこんなに人がいたのか?と思うほどでした。
  •  港には漁船があふれる程係留されていて、祭りの際にはどの船も大漁旗をたくさんつけて、それはそれは壮観な眺めでした。

 

 これ以外にもたくさんあり、とにかく賑やかな町だったことは確かです。

 

昭和37年に撮影。吉里吉里駅。
昭和37年に撮影。吉里吉里駅。

 ここからは、私が子どもの頃の四季折々の遊びや吉里吉里の自然について話します。

【春】

  • 家から竹で編んだザルをもって田圃に行き、あぜ道脇の水路でドジョウやカジカを捕まえていました。誰が一番大きいのを捕まえるか競争で、特別大きいものを捕まえると、とても鼻が高かったものです。時には、捕まえるのに夢中で田圃のあぜを踏みつけてしまい、作業していたおじいさんから怒鳴られたり、追いかけられて逃げ回ったこともありました。そうして捕まえた獲物は、家に持ち帰りバケツや空き缶などに入れて飼育しましたが、飼うよりも捕まえることが楽しかったので、たいした世話もせずにほとんどが死んでしまい、子どもながらも悪いことをしたなあと反省したものです。(でも、またすぐに同じ事を繰り返すのですが・・・)

 

  • 山菜取りもこの季節です。もちろん子どもですから山中に深く入っていくことはしませんでしたが、家の近くに子どもでもわかる山菜はいくらでもありましたから、蕗、わらび、ぜんまい等ぐらいは簡単に取ることができ、自分が取ってきたものが食卓に並ぶのは気持ちのいいものでした。(持って帰ると祖母が褒めてくれるのが楽しみでした)

 

  • スズメの雛を捕まえて飼育するのもこの頃でした。皆が皆行ったわけではないと思いますが、私は動物が好きだったので(好きなら可哀そうだからやるな!なんですが)毎年のようにやっていました。方法は当時の我が家は瓦屋根だったので、春先にスズメが瓦の下に巣を作り雛が孵ってしばらくした頃を見計らい、屋根に上がりそっと瓦をはがして下にいる雛を捕まえるものでした。多少の危険はありましたがスリルを味わいながらやったものです。捕まえた雛は籠に入れ、すり餌や畑から青虫を捕まえて食べさせ、大きくなったら放鳥していました。(なかなか大きくするのは大変でしたが・・・)

 

昭和43年に撮影。
昭和43年に撮影。

【夏】

  • 当然、海です。夏休みは朝から晩まで海で遊んでいました。おにぎりを作ってもらい出かけ、おかずは目の前の海から調達するのが普通でした。ウニ、アワビ、ツブ、ホヤ、シュウリ貝、魚等、子どもでも簡単に取ることができるぐらいたくさんいました。極端なことを言うと、ムラサキウニは海中の岩場が黒く見え、うっかり足をつくと棘が刺さるぐらいの数がいました。今ではとても考えられません。これ以外にも、家の畑からジャガイモやトウモロコシを持っていって焼いて食べたこともありました。そして毎年、真っ黒に日焼けして2学期を迎えたのでした。

 

  • 砂浜での遊びといえば、実に単純なもので「だんごぶつけ」や「砂取り」等です。「だんごぶつけ」は砂で握りこぶし大の砂だんごを作り、交互に上から落としてぶつけ誰の物が一番丈夫にできたかを競うもので、まん丸に作ることと、水分の加減が大きく影響したので各自が秘策を駆使して作ったものです。「砂取り」は砂山を作り頂上に細い枝を差し、順番に砂を取り合い頂上の枝を倒した人が負けというゲームで砂を取る量を考えながら行い、これも駆け引きの難しいもので子どもながらに真剣に行ったものでした。これらの遊びは泳いできて身体が冷えた時に、身体を温める時間を確保するためにやっていたように記憶しています。

 

  • 盆踊り大会、小学校の校庭にやぐらを組んで、青年会のお兄さんが太鼓を叩く姿がかっこよくて憧れたものです。時間は7時頃から9時頃まででたくさんの人が集まり、やぐらの周りを囲んで楽しそうに踊っていました。踊りが終わったら、町のほうへ行きカキ氷やソフトクリームを食べて帰宅するのがとても楽しみだったのを思い出します。また当時は子どもが持てるような懐中電灯がなかったので、空き缶に穴を開け、中にロウソクを立ててカンテラみたいなものを作って代わりにしていた。

 

  • 夏の終わりは蟹釣りでした。自転車の車輪の丸いわっかに網を張り、真ん中に餌を付け、紐を結んで砂浜から海へ投げ入れてしばらくして引き上げるという方法でしたが結構捕まえることができました。捕まえた蟹はすぐに焚き火で焼いて食べていました。

 

  • 海以外での夏の楽しみといえば、カブトムシやクワガタ獲りでした。先輩や同級生と一緒に山へ行き、これはと思った木の幹を思いっきり蹴り、落ちてきたところを捕まえるか、夕食後か早朝に数少ない街灯の近くに行き付近にいるものを探すやり方でしたが、稀にミヤマクワガタ(吉里吉里ではミミタカ)、ノコギリクワガタ(吉里吉里ではベェゴマッタガリ)を捕まえると大騒ぎでした。

 

昭和40年に撮影。まつや付近。
昭和40年に撮影。まつや付近。

【秋】

  • 秋には、栗拾いやアケビ、山梨、豆柿(小さい柿でとても甘い)等を採って食べるのが楽しみでした。お小遣いがあまりもらえなかったので、おやつといえば自然にある果物を見つけて食べるのが普通でしたから、秋は非常に楽しみな季節でした。今思えば本当に自然の恵みの旬なものを食べていたのだと思います。

 

  • この時期は釣りも盛んでした。港に行けばアジ、サバ、アイナメ、チカ等がたくさん釣れ、毎日のように釣りに出かけていました。もちろん道具は満足なものはなく、釣竿は近くの竹藪から切り出した竹を使い、道糸は祖父からもらい、オモリは浜辺に落ちているナットや小石、針だけは釣具店や駄菓子屋さんで売っていたものを買った記憶があります。エサはもちろん現地調達、貝やエラコ、ヤドカリ等をつけました。こんなものでも十分すぎるぐらい釣れました。サバ釣りは最初のエサさえあれば、後は最初に釣り上げた魚を切ってエサとして使えたのでとても経済的でした。

 

  • 釣り以外では、岸壁に寄ってきたタコを捕まえることもありました。産卵期になるとタコが岸近くに寄ってくるので、堤防の脇についているのを見つけると、その辺りの船からフックをお借りし、それで引っ掛けて捕まえたものです。家に持ち帰るとかなり褒められました。

 

昭和40年に撮影。
昭和40年に撮影。

【冬】

  • 吉里吉里は冬でもそれほど多くの雪は積もりませんが、それでも以前は現在よりも積雪が多かったように思います。雪が積もれば当然、ソリやスキーで遊びます。もちろん、当時は立派なスキーやソリはありませんから(あったとしても高価すぎて買ってもらえません)当然、手作りになります。ソリは祖父にお願いしてその辺にある板を加工して作ってもらいました。簡単なものでしたがかなりスピードが出て楽しかったのを覚えています。スキーは竹スキーでした。竹スキーとは竹を割って作る簡単なものです。手ごろな太さの竹を割り、薄く削って板状にし先のほうを火であぶり少しだけ曲げて反らせます。その後、滑りやすくさせるために接地する面にロウソクをこすり付けて完成です。竹スキーは靴に固定されていないので、滑るのは結構コツがいりましたが、先輩たちの滑り方を見ながらうまく滑れるようにそれぞれで工夫していました。それでもうまくなるには何度も転んだものでした。この竹スキー以外にも、細い丸竹を何本も用意し靴の幅ぐらいに合わせたら、何ヶ所かを針金で留めて竹で板状にし先を曲げて途中に紐をつけ靴を固定できるようにした本格的なものを作ったりしました。

 

  • スケートもしましたが、スケートは下駄スキーといって下駄の下に金属の刃がついているものでした。私は持っていませんでしたが先輩が持っていたのを借りてやっていました。もちろんスケートリンクはありませんでしたから、田圃が凍ったところへ行って滑っていました。その後は長靴に固定して使うものも出てきましたが、スキーほどたくさんの人がやってはいなかった記憶があります。

 

  • 冬のもう一つの楽しみは野鳥を捕まえることでした。今では考えられませんがカスミ網や箱のワナ(私たちは「落とし」と呼んでいました)で雪が降った後に仕掛けてスズメやホオジロ、ベニマシコを捕まえては、自分の籠に入れて飼育していました。今思えばとても可哀そうなことをしたと思いますが、当時は小鳥を飼いたくても、とても買ってもらえることはなかったので、飼いたいときには自分たちで捕まえるしかなかったのです。

 

昭和48年に撮影。旧吉里吉里中学校。
昭和48年に撮影。旧吉里吉里中学校。

 これまでの稚拙な文章で、昭和時代の吉里吉里について少しは知って頂けたら幸いです。

これ以外にも季節ごとにたくさんの遊びがありましたが、ここでは書ききれませんので省略します。(また機会があれば、その時に記したいと思います)

いずれ、当時の吉里吉里の子ども達は遊び道具が無ければ、自分たちで作るか、父や祖父から作ってもらい(コマ、竹馬、杉鉄砲等)、豊かな自然の中で自由奔放に遊んでいたものです。そしてその遊びの中や一緒に遊んだ先輩から、危険を回避する方法や仲間との付き合い方、それを後輩に伝えることを学びました。ですから50歳を過ぎた今でも先輩や後輩との関係は深く、今回の大津波の際にも迷うことなく地域が団結して復旧や復興にいち早く取り組めたのだと思います。

しかし、今の子ども達にはその豊かな経験をする場の自然は減少し、少子化で友達は減る一方で遊びといえば、デジタル化したゲームが主流になり人との接し方を学ぶ機会も減少していた中で発生した今回の大津波、我々は多くのものを失いましたが人数は減っても、これからを担う子ども達のために、私たち大人達が経験した楽しいことをまたできるような豊かな自然に囲まれた町に戻すために少しずつ前へ進んでいこうと思います。

 

 最後になりますがこの場を借りて、大震災、大津波以降、被災地に降り立ち、復旧、復興のためにご尽力を頂いたすべてのボランティアの方々に感謝し、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

吉里吉里人 松橋文明

(原文のまま)

 

 

 

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